事の成り行きが想い出され、

詩であったことを確かめる。

詩は詩でありながら、様々な形態へと

流れ出ていく。

存在に詩は読まれ、意識されたそれは

言葉になる。

存在が言葉を憶え、使い、それは

文になる。時間になる。

この成り行きも詩の中で起こる。

我々が存在であるとき、我々は詩である。

我々が存在でない時、我々は文字に過ぎない。

だが、誰かが存在であるならば、言葉になる可能性がある。

存在の記憶だけを時間と定めれば、文字は失せるが、

それは逆説的に時間そのものを否定してしまっていて、矛盾している。

詩を読む一連、詩の中には、主体、客体、媒体がある。

詩はそれらを強調したり、曖昧にしたり、拡大したりする。

詩はこのような働き方をするので、存在と非存在という

根本的な矛盾が最も詩的な感じとして響いてこないだろうか。

存在と非存在。交わるも詩的。

断絶するも詩的。

跳躍するも詩的。その過程も詩的。諦めも、囚われも詩的に。

詩的であるならば、著した者も、読む者も、そのメディアも詩的である。

そして、詩的なそれは主・客の境目を意識させつつも、その反動力

で境を無くしている。

君は私の詩に在る。

私も君の詩に在るかもしれない。

私は只、文字として在ればいい。言葉にするのは君なのだ。

動いて、活きなさい。独りに成るまで。