媒性(空間)

媒性を見ている。

いつも感じるのは、解放、自由。

なぜ自由と思うのかといえば、私が媒性それ自体であるからです。

媒性を、負い目と感じず、ありのままに見ることができるということが、「美しさ」であると、

私は思います。そして美の印象を与える媒性というのは、その内に

それ自体を包含していて、普遍的です。その内では、差がなくなり、凡ゆる運動(色)が

始められるのです。そして、内の外には何も無く、故に内も無いのです。

私は媒性(空間)である。

媒性を見てみようか。

あなたは今、媒性である。

真や善や美、そして聖の印象に対して、高台で感じるような恐怖、

大いなるものへの引け目、それ自体であることへの罪悪感があるだろう。

でも、大丈夫だ。

あなたは、美しいかどうかに関わらず(あなたが如何なる媒性であろうと差はないということ)、

ここに在る、感じられるもの=花であるのだから。

(花は否定の象徴である)

咲きなさい。

私はときに、西暦二○二四年の仮初の媒性の或る中心部を歩く。

人々の自我は堅固であり、電灯が多く、煌めいていて、綺麗だ。

また行きたくなるし、住みたい。

「この仮初の媒性は最新の印象を与え、絶え間なく改修されている。俺は招ばれずに来た。」

そして、清潔な媒性の遠くの限界を見ながら、暫くの間呼吸し、帰ろうと思った。

「ここには来てもいいし、来なくてもいい。

全ての時空を遍く照らす黄金の光。その優しさこそ人々に齎されるべきなのになぁ。ああ....」

そして、再び運命を歩く。

愛されたなぁ....また愛したいなぁ....

光のもとに還っていく....

媒性に居る自覚があります。

沈黙を識らなければ、偶像への期待と、「偶像をぶち壊す者の到来」

への期待で、物語や会話が定型化されます。

でも彼や彼女らのキャラクターの変遷や履歴の構築よりも、木の葉の

落下の運動の方が色っぽくて、豊かなので、それを見てる方がいいのです。

だけどどうだろう。私もこれから所定の媒性(タイミング)で、或る偶像を

壊すように依頼されているようです。人はそれによって私をある種の偶像として更新し、

前に進むでしょう。私も偶像をつくりあげ、それを捨てることで救われたので、私も

遣わされるのでしょう。

私はどこへでも行きます。どこへでも現れ、そこで生きるでしょう。